祝う会当日の上杉のスピーチ
「皆さん本当に、今日は木曜日の真っ昼間という最も集まりにくい時間帯にこの国会の方面まで足を伸ばしてくださり、ありがとうございます。
北海道、京都もそうですし、また、九州からも、そして福島からも沢山の方がこうやって……集まっていただいて、本当に、ありがとうございます(会場拍手が沸き起こる)。
かなり、皆さんにご迷惑をおかけしました。先ほど何度も挨拶してもらったように、田村淳さんも古賀茂明さんもそうですが、他の方や発起人八十八名の方…今はもうちょっと増えてますが。皆さん、私と付き合うな、あいつと付き合うとろくなことがない、と、一人二人ではなくて何十人、多分何百人くらい、この五年間言われ続けたと思うのですが、私もそんな風に言われ続けながら、ひとの話を聞いていて反省をしているのと共に、そんな中でこうやって五年間、私のことを信じているわけではないと思うのですが、少なくとも、全否定、ということをしないで、話をこうして聴いてもらえるというだけで、本当に感謝です。今日は、ありがとうございました。(会場拍手が沸き起こる)
「人生の本舞台は常に将来にあり」ですね。今日、ここで、憲政記念館という場所を選んでどうしてもやりたいということで、(祝う会実行委員会にリクエストをして)ここでやらせていだいています。元々国会の建物の一部なんで、先ほど国会議員の方々も沢山いらっしゃっていますが、基本的にはあまり使えないところなんですね。まさに憲政の神様である尾崎行雄さん、銅像も建っていますが、
そこでやらせて貰えていることも、感慨深いです。
その尾崎萼堂の「人生の本舞台は常に将来にあり」という言葉についてですが、やはり、逆風とか、雨が厳しく降っている時ほどこの言葉が身に染みることはありません。尾崎行雄さんは戦前、三国同盟や対華21か条の要求などに反対、あるいは不戦と普選、つまり普通選挙の導入と、戦わない不戦、この二つを掲げて当時逮捕され、最も最初に逮捕された新聞記者・国会議員ということで、戦時中は(塀の)中に入っていたということで、命を永らえた。それで、戦後は一貫して独裁に対して戦うという姿勢をしていた、尾崎行雄さんの、憲政記念館、です。
私自身もずっと、15年ほど前にNYタイムズを辞めてから気にかけてきたことは、政治の分野とは違いますが、そういう意味での、自由な言論ということを考えてきました。そこで考えたのが、お手元にあります冊子に引用された『ジャーナリズムの5大原則』というものですが、とにかく、自由な言論というのが、いろいろ問題はあってもアメリカのジャーナリズムの中では担保されているんですね。『ひとと意見が違うのは当たり前だ、というのを前提に様々な言論が世界に広がっていく、と。これが健全な言論空間でありメディアであり、その先にある多様性の、先にあるのが、まさに、民主主義である、と。それがフェアな民主主義国家であり、社会である』そうしたことを徹底して学び、NYタイムズを辞めた後は、ジャーナリストとして、それを実践してきました。
ただ、『そのときに教わったの、ジャーナリズムから教わったものは、どういう風にお返しすればいいのか。NYタイムズにお返しすればいいのか』と、この会の発起人にもなっている、当時の上司のハワードフレンチ東京支局長などに聞いて。ちなみに、ハワードさんはそのあとコロンビアのジャーナリズムスクールの教授になっています。で、聞いら、『ジャーナリズムで得たのなら、それをジャーナリズムにお返ししなさ
い』というふうに言われました。そこで、色々と貯めた小金とかですね、大金とか、大金はなかったんですけどね、それを、どうやってこの日本の社会に返そうかということを考えて、(会場には)メディアの方もいらっしゃいますが、記者クラブ開放、やはりこの、フェアな言論空間のためには、それが第一歩だろう、と。
そのために、自由報道協会、先ほど大貫代表からもお話しいただきましたが、そこに、小額ではなくかなり厳しい金額も、数千万ですが、投入したり、あるいはオプエド。これはオポジットエディトリアルといって、反対意見、社説とかの、色々な、多様な意見を作るためのシステムですが、日本の新聞テレビ以外、アルジャジーラなどもやっています。これを、日本社会に広めようと思って、番組名にオプエドという名前をつけて、二年前から、今ここにいるスタッフたちも含めて、はじめました。
それは、ジャーナリストをずっとやってきて、私自身が心がけたのは、違う意見、多様な意見、右も左も関係ないのだと、上も下も関係ないのだと。そうした多様な意見が大事だというので、 ひとさまの言うことに対して、批判はするけどそのひとの言論を封殺するようなことは一切しない、と誓い、実践してきました。ですから、私自身が批判されても、じゃあうちの番組に出てください、あるいは、私が番組に向かいましょうか、対談しましょうかということを言い続けてきたのですが、日本社会はなかなか厳しくてですね、私がそういう風に言っても、都合が悪いからかもしれませんが、『上杉は出さない』『あいつの言論を止めてやる』ということで、かなり厳しい五年間を過ごしました。
今日、この名誉回復の会をやっていただきましたが、私自身の名誉というよりも言論の多様性に気づいた方がたくさんいらっしゃって、こういう意味で、福島の原発、その直後のメルトダウンということも含めて、やはり、多様性のある言論空間が担保されていれば、もっとはやく対応がで来きたのではないかと。そして、その言論空間の多様性が失われた時に起こるのがいわゆる社会の一元化ですね。
一方向に向かう。これはどうなるかというと、戦前もそうでした。あとは独裁が出現して、その独裁の後に来るのが、戦争とか、国家が衰亡の危機に陥る、と。これを防ぐためには、右も左も関係ないんだと、繰り返すように。原発賛成も反対も関係ない。あらゆることを含めて、自由な言論空間、ひとの意見を、発言することは邪魔しない、こういうような心構えでやってきました。
私自身、ジャーナリストとして、まあNYT辞めてからはもう十、、、六年、実は、今年申年なんですが、私申年です。おわり(笑いが起こる)。申年です。申年、48になりました、今月。で、(若いという声が上がる)若いですか、ありがとうございます。今日は誕生パーティーにお越しいただきありがとうございます。(笑いが起きる)五月生まれが沢山いるので、あとで紹介はしないですけど(笑いが起きる)。
その、48歳、実はハワードフレンチ氏やNYTから学んだことを実行に移したのが12年前の申年なんですね。その時は先ほど宮城門主からも話にあったように、イラク戦争の取材に行き、大失敗をして事故に遭って一年間、最初はパリに入院してたのが、実は申年なんです。36歳のとき。ここにはチタンも入っていますが(左腰部を指しながら)、その時にパリの病院あるいは日本に戻ってきた時のリハビリの時にメディアの皆様方から、色んな方々から援助を受けてですね、ありがとうございます、と、今さらながら言うんですが、フリーランスというのは一年間棒に振ると収入はゼロなんです。それなら生活費だけでも、ということで寄付をいただいたのが12年前。
その時に、その寄付をいただいたメディアの方々へのお返しというのはどのようにさせていただいたらよいか、ということを考えて『そうだ、一人一人に返すよりも(ジャーナリズムへの恩返しであるのだから)、記者クラブシステムや日本には優秀なジャーナリストが沢山いるというのに(彼らを)拘束している、記者クラブというシステムを開放させよう』と。逆のように思われてしまっていますが、記者クラブの開放というのは(開放しなければフリーならでは発信が重宝されるため)私にとってはあんまり得じゃないです。一方で、メディアのかたにとって得なんですね。自由な言論ができ、自由な取材活動ができる、自由な表現活動ができる、つまり記者クラブを開放し、オープンな方が、結果としてクラブ記者の、記者の解放になります。解き放つ、emancipationのほうになるんですが、その方たちへの恩返しはこれしかない、と。十二年間それをジャーナリストと してやってきましたが、途中からはプロデューサー、あるいはファウンダーとして、そういうことをやってきました。
ただ、ジャーナリストとしてやりつづけることが、かなり、結果として皆さんに迷惑をかけたということで、繰り返すように今日はお詫びの会、と(会場笑いが起きる)。それと時に、感謝ということと。あとは、ジャーナリスト個人でやるよりも、こうやって皆さんが気づいて、新しい日本のメディア空間を創っていくお手伝いを…後衛に回ろうかな、と、いうことで、ジャーナリトという肩書きは一回休職しましたが、ちょうど
今日、48歳になったこの12年間で私の役割は終わったかなぁということで、今後はまぁその、後ろの方で後継のひとたち、先ほどのオプエドやノーボーダー、あるいは他の若いジャーナリストが、私のように『取材の前段』で苦労するようなことがないように、この閉鎖的なシステムを打破するためのお手伝いをしようということで、今日この会に合わせて、ジャーナリスト引退宣言ですね(笑いが起こる)。ジャーナリストは、個人でやるのは、辞めます。その代わり、また別の形でいろんな発信をお手伝いをして、フェアな場を作っていくのと、とにかく、みなさんに、支えていただいた方に、恩返しできるということが、今度、次の十二年間に、次は還暦ですけれども、還暦なんて、昔は還暦って結構年だなあって考えてたんですけど、今日ご挨拶に立っていただいた皆さん、ほとんど80……70…(笑いが起きる)。と、いうことで、まだまだ現役。「人生の本舞台は常に将来にあり」、これを肝に銘じます。
つまり、尾崎咢堂の話を聞くとですね、人間というのは財産というのを、いろんな、子どもとか、子孫とかに譲ることは一生懸命だ、と。ただその財産というのは、増えもするし減りもする。そこに一生懸命なのに、なんで人間は最大の財産である経験や知識や社会的な見識というものを子孫に渡さないんだと。その自分たちの人間としての(財産の)頂点は、死ぬ前日なわけです。それまでは、仮舞台、練習で、最後の本舞台というのは死ぬ直前なんです。そこまでに、さまざまな自分の財産を移すことが仕事なんだ、と、こういうことが、尾崎萼堂の、おそらく、言っていたことではないのだろうかと。それを考えると、48の、非常に下っ端なんですけど、先輩方にもですね、図々しくも、ここまで来ていただきながら、京都や…すいません門主(ぺこりと頭を下げ、笑いが沸き起きる)北海道からも来てもらっているという方々も、ぜひ、このような形で日本の言論空間の多様性、これを拡げるために、もう少し、お力を貸していただければと思っております。ずいぶん長くなりました。ということで、本日は本当に、ありがとうございました。」
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